子どもが教えてくれたこと、見てきました。フランスのミニシアター系映画で、難病の子供たちが病院や学校を通して、どのように生きているかを描いた映画。撮影する製作者側が余計な演出をまったく入れていないので、子どもたちのありのままが映し出されている。
子どもたちは腎不全や心臓機能が弱い、腫瘍があるなど様々な病気を持っている。しかし彼らが楽しそうにしている姿がたくさん映し出されている。ほっこりするというか、病気ではあるけれども、彼らは一人の子ども・人間であるのだ。
配られたカードで勝負するしかない
一人の女の子「アンブル」は心臓が弱く、激しい運動ができない。いつも薬を投与するための機会を背負って置かなければならないらしい。彼女は激しいスポーツはしないけれどもバトミントンを楽しむことはできるし、演劇には力を入れている。自分ができることを精一杯やろうとしているわけだ。
彼女は言う「ややこしいことは忘れて、今を生きるしかない」と「それが人生というものだ」と。子供のうちから自分自身の置かれた境遇とうまく付き合っていくことを、自分自身で結論づけているのだ。
我々も「もっと金持ちだったらな」とか「もっと頭がよかったらな」ということを考えることはあるだろう。しかし人生は平等・公平ではなく、生まれも違うし病気の有無も違う。人それぞれ持って生まれた物があるのだ。
たまたま彼女は病気を持って生まれた。それは不幸なことだと多くの人が思うだろう。だが、本人はそんな中でも生きる喜びを見つけ出し、楽しんでいる。親や病院スタッフなど、周りの協力もあるのだろう。しかし一人の子供が楽しそうにしている姿を見ているのはこちらも嬉しくなる。
誰にでも「生きる喜びを知る権利」がある
小さな男の子「イマド」は腎臓が悪い。透析をしているのだが、ふとした時に泣き出してしまう。自分自身に嫌気がさしたのかもしれない。「どうして自分だけこんな目に合うんだろう?」そう考えてしまったのかもしれない。感情が溢れて泣いてしまう。
泣くこともあるけれども、彼はいろいろなことを経験する。病院の中で友達と仲良く遊ぶ、勉強をすることも。そして働く大人たちに仕事について体験させてもらう…彼は彼の中で病気と付き合い、一生懸命生きる喜びを体感しようとしているのだ。
この映画を通して子どもたちは病気でありながらも、生きる喜びを感じているように思う。どんな状況で生まれたとしても、その中で生きるという喜びを知る権利が誰にでもあるのではないだろうか。もちろん社会保障費の問題や所得格差の問題などもあるだろうが、人権のことをよく考えているフランスならではの作品だろう。
我々は生きる喜びを知るために、一生懸命生きているか?問いかけられた気がする。