先日、仕事の一環で自閉症啓発週間のシンポジウムに行ってきた。いろいろとママさんたちの話や教授の話を聞いて参考にはなったのだが、一つ気になる部分があった。それがタイトルの「漢字のルビふり」だ。
高校受験・大学受験のときの合理的配慮として「学習障害で漢字がわからないという子供のために、漢字にルビをふる」という例があるようだ。そしてそれが厚生労働省が推奨していると大学教授が紹介してくれた。教授もルビをふることには賛成のようだ。
しかし私は反対だ。それは子どもたちにとってプラスに働くとは考えづらいからだ。
障害グレーゾーンで漢字が苦手な子はどうする?
障害を持つ人達も健常の人と同じように機会を持つことは大事だし、そのために公平性を担保することは社会として行っていくべきだ。それはそのとおりで私も公平であるべきだと思う。ただし、社会的な公平というのは障害を持つ人だけでなく健常の児童にとっても公平であるべきだ。
漢字が認識できない学習障害の子供もルビをふれば問題文が読めるようになるので、問題に回答できるようになるだろう。テストのポイントは問題文に答えることであって漢字が読めることではないので、「入学試験の本質」にフォーカスしているとも言える。
であれば、なぜ健常の子供だけは問題文に回答するために漢字を読めなければいけないのか?健常の子供だけ「漢字が読めること」と「問題文に回答すること」の2つのハードルを超えなければならない。もっと言えばグレーゾーンの子供はどうするのか?合理的配慮を受けられないのか?
つまりこのルビをふるということは公平なように見えるが、学習障害を持たない健常の子供・グレーゾーンの子供には公平ではない方法なのだ。やるのであれば、全試験の問題文にルビをふるべきだ、それが公平というものだろう。そうすれば、グレーゾーンの子供も健常の子供も「問題文に回答する」という本質だけに集中することができる。
漢字は社会的障壁なのか?
もう一つ、発達障害のある人には「合理的配慮」を行う事が大事だとされている。合理的配慮というのはその人が苦手としている・できないことをできるようにするためのツールの提供や手助けのことを言う。例えば計算が苦手なら計算機を使えばいいし、文字を書くのが苦手ならキーボードでPCに入力すればいい。
こうやってビジネスの世界では合理的配慮を行えば、周りと遜色なく発達障害の方々は働くことができる。つまり合理的配慮というのは「社会的障壁を取り除くこと」と定義されているのだ。そして漢字にルビをふることも、学習障害の子どもたちにとって合理的配慮だとされている。
しかしよく考えてほしいが、漢字は社会的障壁なのだろうか。漢字があることで意味を捉えやすくなるし、文章の体裁も整えられる。漢字があることで多くの人にとってはプラスになっているわけだ。漢字があること、ルビがないことが本質的な社会的障壁ではないのだ。
本質的な社会的障壁は日本の教育システムにある。画一的な6・3・3のシステムに発達障害の子どもたちが無理やり合わさなければならない、これこそが社会的障壁だろう。そもそも高校なんて義務教育ではないのだから行かなくてもいいし、行くにしても15歳から行かないといけないわけでもない。行けるようになって行けばいいのだ。大学も同じだ。
もちろん社会を動かすことなのだから、簡単な話ではない。しかし日本の画一的な教育システムこそ問題である、という課題を忘れて議論しては子どもたちにとっても社会にとっても良い方向には進まないだろう。