この、権利と義務がワンセット、というのは非常に自民党改憲草案と通低する発想。なにか義務を果たさないと権利主張しちゃいけないと改憲草案起草者は考えてると思う。およそ人間であるだけでこういう人権があるんだよという発想ではない。 https://t.co/5Q0yTAgbHR
— 弁護士 太田啓子 (@katepanda2) 2017年4月21日
権利と義務はワンセットと言うのは間違い、ということをおっしゃっているのだと思う。私もそれはその通りだと思う。ここで言う義務と言うのは憲法で定められている「勤労、納税、教育」の義務のことだろう。三大義務を果たさないと権利主張はデキない、というわけではない。
なのでそういう意味ではこの弁護士さんとは同じと言えるのだが、権利行使は当然であるという姿勢はあまり好きではない。権利行使にはやはり憲法に定められた三大義務とは別に他の義務が存在しているのではないだろうか。
権利を得るために多くの人が犠牲になった歴史
なぜ他に義務があるのか?といえば、権利を得るために多くの人が犠牲になってきた歴史があるからだ。日本の場合は民主主義をアメリカから無理やり押し付けられたところもあるが、大正デモクラシーの例からもわかるように、様々な人が権利を得るために動いてきた歴史がある。
選挙も最近では18歳から投票できるようになったが、普通選挙が実行されるまでは男性だけ、収入が一定以上あるものでなければ投票できないなどの差別があった。女性の権利で言えば男女雇用機会均等法が制定されるまで、多くの人の努力があった。
海外であれば王政から民主政に変わる際、大量の血が流れたフランスもあれば、内紛を起こしたルワンダの歴史もある。今講師できる権利は多くの人の血と努力の結晶によって作られたと言えるだろう。
後世に権利を残し続ける義務がある
実際には権利を行使するために、義務と言うものは特にない。あるとすれば権利を行使するために行動することくらいのものだが、それともう一つ「後世に権利を引き継いで・残していく義務」はあると思う。せっかく得た権利なのだから、長く続ける様に後世に残す努力が必要だ。
もちろんそれのおかげで今でも大正時代の民法の規定が残っているなど、立法府の怠慢のようなことも起こりうる。既得権益になりうることもあるので、全体最適を考えないといけない。
しかし多くの人のプラスになる権利であれば、後世の人に残す義務はあるだろう。その努力を払うことこそ、権利を行使するための義務ではなかろうか。