やはり how to be happy よりも how to look happy が重要な方々というのはいらっしゃるんでしょうな。もちろん、この両者が全く無関係ということは基本的にないにしても。 pic.twitter.com/ovIjL7vhBj
— ニー仏 (@neetbuddhist) 2017年4月7日
幸せかどうかは自分が胸に手を当てて決めればいいことなのに、自分が幸せかどうかは、自分のことを他人が幸せそうに思っているかどうか、で決めよう、という極めて他人に依存する、くっそダサい考え方 https://t.co/EoCku48FTG
— 田端 信太郎 (@tabbata) 2017年4月8日
LINEの役員である田端さんが上記のようなことをおっしゃっていた。曰く女性誌の多くが「幸せになる」よりも「他人から幸せそうに見えること」に重きを置いていること、その考え方が「ダサイ」とおっしゃっていた。私もこの気持は大変よくわかるし、同意だ。
しかし残念ながら田端さんのこの「ダサイ」という言葉は彼女たちには伝わることはないのだろう。もうこのダサイという言葉が通用する時代ではなくなったのではないだろうか。
ダサイと言われて恥ずかしかった時代
ダサイと言われて恥ずかしかった時代が誰にでもあるかと思う。年齢を重ねていくに連れ、ダサイと言われたところでなんとも思わないようになってきた。ただ、これは年齢だけではないなと思う。ダサイと言われるのは「この人は価値観が違うんだな」と思うくらいになってきたのだ。
例えば昔では考えられないが、今ではアニメやゲーム・マンガと言った趣味が幅広く認められている。一昔前であればダサイと言われ、軽蔑されることもあった。学校のクラスで言えばイケてる人たちはサッカー部やバスケ部、ダサイ人たちはオタク趣味というような区別があったように思う。
今の中学生と話をする機会はないのだが、中学の先生をしている友人に聞く、平然とラブライブのキャラクターが好きという話をしているという。昔なら考えられないが、それだけ市民権を得たということだろう。
さて何がいいたいかと言うと、いわゆる「ダサイ」と言われていたものが今では幅広く受け入れられてきたということだ。もっと言えば多様性を認められるようになってきて「自分は自分、他人は他人」という考え方が増えてきたように思う。まだまだ同調圧力もあるが、趣味の世界などではかなり多様化している。
多様化すれば何がダサイかを決められない
ダサイの反対はイケてるという価値観があるわけだが、じゃあ今はどういう趣味がイケてるのだろうか?どういう生き方がイケてるのだろうか?たぶん、そういうイケてるという価値観もかなり多様化しているだろう。
例えば子供と配偶者と3人で幸せに過ごすような生き方がイケてるという人もいれば、バブル期のようなお金をたくさん稼いでいい車に乗って高いマンションに住むという生き方がイケてるという人もいるだろう。NPOのような社会貢献をすることがイケてるという人もいる。
つまり今は何がダサイか、何がイケてるかということが多様化している時代なのだと思う。こういう時に「それ、ダサイよ」と言ったとしても、受け止める側の反応は「あ、この人はこの価値観の分からない人なんだ。違う世界の人なんだ」くらいにしか受け止められないだろう。
もちろん上記の田端さんは注意してやめさせるためにダサイと言ったわけではないのだが、それでもこのダサイという言葉が受け止める側にとって響かない時代になったのではないかと思う。
フジテレビは昔のダサイ基準で失敗している
このダサさの多様化というものを理解できていないのがフジテレビだ。最近でもアナと雪の女王でエンディングに芸能人を出すことで、大きな批判を浴びることになった。
なぜフジテレビはこのような編集をしたのか?それは「きっとこれが多くの人に受けるはず」と思ったのだろう。でなければやる必要がない。芸能人をたくさん出して、パーティー感を出せば、きっとみんな喜んでくれるはずと思ったのだと思う。
一昔前であればそれは通用したかもしれない。パーティー感をだしてワーワーと騒ぐ、それを見て視聴者も楽しむということはあった。しかし今は多様化しているのだ。必ずしもテレビに出ている人たちが騒いでいるのを見たい人たちばかりではないのだ。
特にアナと雪の女王は大半の人が知っている、有名映画であり良質コンテンツだ。テレビや芸能人に興味のない人も知っている。なのでネットしかしない人が久しぶりにアナと雪の女王を見たら、全然知らない人たちがワーワーやっている…なにこれ?と思って当たり前だ。
もちろん普通のバラエティで芸人同士でわーわーと喋るのは楽しいこともある。ただ、それは「そういう番組ですよ」「芸人同士がわーわー喋るんですよ」という番組だからこそ通用するわけで、アナと雪の女王を見たい人にしてみれば芸能人が出て来るエンディングはノイズでしかないのだ。
フジテレビはネットがなかった時代のテレビで感覚が止まっているのだろう。自分たちのパーティー感はイケてる証拠だと思っていたのかもしれない。
ダサさが多様化し、言葉の力を失った
結局、ダサさが多様化したことで、言葉の力を失ってしまったように思う。なので上記で紹介した田端さんの「その生き方、ダサイよ」と言われても、女性誌の読者からしたら「大きなお世話」「意味がわからない」と思われるのだろう。
もちろん私は田端さんの主張とかなり近いのではあるが、残念ながらもうダサイという言葉では彼女たちには届かない。もっと他の、ピッタリの言葉を見つけなければいけないのかもしれない。